1995年1月17日5時46分
あれから28年が過ぎました。
今の若い人たちの記憶の中の震災と言えば
「東日本大震災」なんだそうです。
私の中では「阪神大震災」
忘れたくても忘れられないし、忘れてはいけないものだと思っています。
当時、私は尼崎に住んでいました
まだ成人の日が15日だった頃です。
前日の16日が振替休日だったので
成人の晴れ着の写真を撮影に行ったことを覚えています
(はい、そこ、歳数えないでね)
震度4 の地域でしたが、
タンスの上に置いていたものは落ち
家の瓦屋根も全部落ち
お風呂のドアが歪み開閉不能
外に出ればガスの臭いが充満し
神戸に住んでいた友達の安否は不明
なんなら高速道路が倒れた目と鼻の先に住んでいた友人もいて
大学も潰れ、電車の高架も落ちて
日常生活はあっという間に変わり果てた姿になりました
成人式で久ぶりに友達に会って、楽しい時間を過ごした直後だったから
余計にその落差が激しかった。
ドンっという突き上げで目が覚めた瞬間にはもう揺れていて
初めて体験する揺れに
怖くて動けなかった記憶しかありません
幸い、というか
私の周囲で亡くなった人はいませんでした
タンスの下敷きになった友人はいたけど
命に別状はなく
強いて言えば、その1週間後に
彼氏に振られたことが辛かったくらいでしょうか(笑)
でも本当に一瞬で
何が起こったのかわからず
夜が明けていくにつれて明らかになる惨状
ただただどうしていいのかわからなかった
それから28年
好きなことができて、好きな人たちに囲まれて
美味しいものを食べられて
生きていることに感謝することができています
よく
『今日で人生が終わってもいいように
悔いのないように生きろ』
なんて言う人もいますけど
追悼式典のニュースの中で
インタビューされていた人の話です
お母さまとの二人で暮らし
たまたま震災前日に友人の披露宴に出席したそうです
その話をお母さまが聞きたがったそうですが
もう夜も遅いし、明日話たるから、はよ寝よ
と片付けたそうです
それが最後の会話でした と
うちの祖母はよく戦時中の話をしてくれました
祖母は末っ子で曽祖父にとても大切に可愛がられたそうです
祖母は専売公社(今でいうJT)にご奉仕に行っていたそうで
タバコは多くの食糧と交換できたそうです
お米と交換してもらい、
曽祖父はそのお米を日ごとに分けて保管しよう
と提案したそうですが
祖母は
「そんな面倒なことは明日でいいじゃないか」
と言って床についたそうです
その明日は来ませんでした・・・
祖母の家に焼夷弾の束が落ちてきたそうで
祖母は全身大やけど、曽祖父母は跡形もなかったそうです
私に話す時に祖母はいつも言っていました
『もっと違うことを言っておけばよかった』
悔いのないように生きよう
と考えると、
まぁまぁ全力で毎日を過ごすことになりそうですが
小さいことなら何かひとつくらいは
できるんじゃないかなぁ
それこそ、
今日が無事に終わったことに感謝
とか
旦那様にいつもありがとう
とか
美味しいご飯を食べられたら
「幸せ~」と叫んでみる
とか
こんな大きな経験をしたからこそ
感じたことや経験を語り継いでいく必要もあるんじゃないかと
もう、阪神大震災は歴史上の出来事かもしれません
私にとっての第二次世界大戦と同じです
ただの出来事を捉えるか
そこから何かを感じるか
地震直後に見た
メリケンパークの地面が割れて海に沈んでいた風景や
電車の高架が落ちて大学に通えなかったこと
成人になったばかりの私が感じたこと
なかなか言葉にしていくことや
未体験の人たちに伝えるのは難しいことだけど
あの時ほど、人との繋がりが温かいと感じたこともなかった
その温かさを大切にできたら
あの経験から28年を経て、今の私が思うこと、です。