じたばた、ジタバタ・・・
じたばたするなよ、世紀末が来るぜ、
とはシブがき隊の歌ですが(年代がバレる)
大学も後期・秋学期が始まる季節となりました。
今日も1日お疲れ様でした。今日もよく頑張りました。
あまりの暑さに何もせずぐうたらし続けた夏休みでしたが、
いよいよもって、人間らしい生活に戻る時期になりました。
突然ですが、私は昔からギャン泣きする子どもの声が得意ではありません・・・
床に寝転んでジタバタして駄々をこねている子どもの声も得意ではありません・・・
自分の気持ち的に余裕があるときは少しは我慢できるのですが、
余裕がないと耳を塞ぎたくなるときがあります、ごめんなさい。
親の顔色を見ていたから、ジタバタできなかった
そもそも私は、HSP気質なのもあり他人様よりも音に敏感。
突然の大きな音があまり得意ではないのです。
先日、仕事に向かう電車の中で子どもが駄々をこねてギャン泣きしておりまして・・・
あまりの泣き叫び具合に心配になりつつ、
ふ、と「私はなんで子どものギャン泣き声が得意ではないのだろう?」と考えました。
電車の窓の外を眺めながら、幼い頃を走馬灯のように思い出していたのですが
(まだまだ元気だけど)
母が最近私によく話すことを思い出しました。
床に寝転んで駄々をこねている子どもを見た時に母は
「あんな風にあなたを床に寝転ろばせて駄々をこねさせたことはない」
以前までは「ほーん、そうなのね」程度に受け止めていた私。
半年前くらいからは、それが母の子育ての中の自慢のひとつだったのだろう、と。
(それでも「そうなのね」くらいにしか感じてなかった)
最近、インナーチャイルドと向き合おうと決めた私には
この母の言葉がとても違和感のあるものになってきました。
だってね、ギャン泣きって言葉にできない感情を
伝えようとしている行為なんじゃないの?
と言うことは、
私は「自分の感情を表現することを抑圧されていた」ってこと!?
しかも、その後も「泣くな」と言われて育ったことも含めると、
あれ?私ってどうやって自分の感情を表現していたのだろう・・・
て言うか、そもそも自分の感情を言葉にしていたのか!?
と、見事に
自分の意志や感情を表現する=悪
の方程式をキレイに刷り込まれたオトナが出来上がりましたとさ。
子どもがギャン泣きをすること、
ジタバタすることは自分の意志や感情を表現する方法なんだ、と気づいた。
電車の中でギャン泣きしている子どもの声を聴くと
なんとなくイラっとしていたのは
「ああ、私ができなかったことをしているな、羨ましい」
と感じていたからなんだ。
そのことに気付いた瞬間、なんだか少し楽になったような気がしました。
思い切りジタバタしてみよう
とは言え、実際に床に寝転んでジタバタはできないんだけど
(ちょっとやってみたい気持ちもある(笑))
気持ち的にはジタバタしてもいいのかな、というか、しなきゃいけないなと。
自分の意志や感情を表現すること自体を悪だ、
と考えて生きてきた時間があまりにも長すぎたうえに、
そのうえ嫌だなとかのマイナスの感情を抱くことにも
✕を出してしまうから、自分の本当の気持ちがわからない。
良いとか悪いとか考える前に、
私が、自分が何を思ったのかをしっかりと受け止める
それが今の私には、親の顔色をうかがってばっかりだった私には
リハビリとして必要なのかもしれない。
そして何より、
「あんな風にあなたを床に寝転ろばせて駄々をこねさせたことはない」
と母が言うのであれば、私はじゅうぶん自慢の娘だったのではないか?
なんて自分に甘々な言葉を
あらいぐまラスカルのぬいぐるみフラガールバージョンを抱きしめて、
幼かった頃の傷ついた自分に伝える、ということをしております。
私はすでに母にとって自慢の娘だったのではないか?
だとしたら、じゅうぶん、今のままでもよいのではないか?
これ以上無理やり頑張る必要はないのかもしれない、と。
そう心から思ったとき、少し母のことを許せたような気がしました。